フリーソフトウェアとカトリック教義の驚くべき共通点

「インターネットを支えている技術の組成は、インターネットの倫理的側面に重大な影響を及ぼさずにおかない。新しい情報技術とインターネットの使用を導く精神は、共通善への奉仕に向かって連帯することと、その連帯の実践に向けた固い決意でなければならない。インターネットには、標準の設定と、[共通善を]助長し、保護するためのメカニズムの確立が必要である。新技術へのアクセスは、個人・団体・国家のすべてに開かれていなければならず、サイバースペースは幅広い情報とサービスの源として、さまざまな言語により無料で全員に提供されなければならない。このプロセスを推し進めることで勝者となるのは、科学技術と地球資源を支配する富裕エリート層だけではなく、人類全体である。私的・公的セクターにおける断固たる行動により、デジタルデバイドを縮小し、最終的に消滅させていかなければならない」

上の声明文は、Free Software Foundation(FSF)の創設者、Richard M. Stallmanが書いたものといっても通用しそうだが、実はカトリックの総本山バチカンが発表した”Ethics in Internet“(「インターネットの倫理 – EiI」)という文書の一部である。これをFSFの立場(「社会には、真の意味で市民に提供される情報が必要である。たとえば、単に実行できるだけでなく、読み、修正し、改変し、改良できるプログラムが必要である」)と比較してみると興味深い。

カトリック教義とフリーソフトウェアの接点

フリーソフトウェアとは、技術的には(倫理的にも)価格のいかんにかかわらず改変と共有が自由で、PC台数に基づく費用・印税・特許料・その他類似の制約からも自由なソフトウェアを言う。ファイルフォーマットと通信プロトコルにも同じ定義が適用される。ここで言う「フリー(Free、大文字に注意)」は、いま述べた条件のもとで提供されるソフトウェアと標準にのみ使用できる言葉である。さて、ここ数十年の間にカトリック教会が発行してきた文書には、情報技術に対するこのアプローチと明らかに一致している記述が見られる。

本稿では、ソフトウェアプログラムを機械の1カテゴリと見なすことにして、まず、1967年に法王パウロ六世が発表した民族発展に関する回勅、”Populorum Progressio”を見てみよう。中に「既存の機械類を修正しないと、富裕国と貧困国の差は縮まらず、むしろ開いていく」というくだりがある。

次いで1971年には、社会的コミュニケーションに関する司牧指針、”Communio et Progressio“(CeP)が出された。ここに次の記述がある。

知る権利は、情報を求める義務と切り離せない。情報はただ発生するのではなく、求めて得られるものだからである。一方、求める情報が確実に得られるようにするには、各種社会的コミュニケーション手段へのアクセスが保証されなければならない。

この論理を突き詰めると、カトリック教会はプロプライエタリなファイルフォーマットやコンピュータプロトコルを使用するべきでないという結論になる。プロプライエタリでは、情報へのアクセスを阻害し、制限し、あるいはエンドユーザに特定の(ときに高価すぎる)ソフトウェアプログラムを押しつける危険がある。

これは、プロプライエタリな電子メール添付を駆逐しようというStallmanの発言によく似ている。

情報への権利は、通信の自由と不可分である。

これをコンピュータベースの通信に当てはめると、情報への権利はフリーなフォーマットとフリーなプロトコルによってのみ保証される、ということである。また、コンピュータユーザは、そのような通信のために使うプログラムを自由に選べなければならない。Stallmanも同じ希望を述べている。

通信の自由ということは、個人やグループが自由に情報を求め、自由にそれを広めることを意味する。また、メディアに自由にアクセスできることをも意味する……。
メディアは、大きな文化的潜在力をもっている。1例をあげよう。世界には、古代からの文化遺産をいまだに物語・芝居・歌謡・舞踊の形で継承している国々がある。そうした伝統的民俗芸術の紹介と普及には、メディアが絶大な力を発揮できる。最新の技術を用いれば、それを広く世界に紹介することも難しくない。たとえば、反復視聴に堪えるフォーマットに記録しておけば、すでに古い伝統が消え失せている地域でもその芸術にアクセスできる。それは当の国民の文化的アイデンティティを育むことにつながり、さらには他国の国民を喜ばせ、他国の文化を豊かにすることもできる。

多くの発展途上国は、すでにフリーのソフトウェアとフォーマットによって自国文化遺産の保存に成功している。フリーソフトウェアは、最小の費用で手早く改変でき、どのような言語や方言にも合わせられるから、その目的にはとくに適している。そうしたツールの存在は、世界中のカトリック宣教師にとってもありがたいことだろう。

CePから10年後、法王ヨハネ・パウロ二世は”Laborem exercens“(「働くことについて」)という回勅を出し、人は働くことにより、自らの必要に合わせて自然を変化させるが、同時に、働くによって充足し、言わば「より人間らしく」なる、と述べた。

同胞とともに積み重ねてきた共通善をさらに増大させようと働くなら、その働きによって、人類家族全体の――世界に住むすべての人々の――受け継ぐべき財産を増やすことができる……。
キリスト教の伝統の中では、私有の権利は共通利用の権利に従属する。物質はすべての人に与えられるべきものという事実にも従属する……。
教会は常にこう教えてきた――「人は働くことによって物と社会を変化させるだけでなく、自分自身をも成長させる。多くを学び、自らの資質を磨き、自己の外へ出て、自己を超える」

フリーソフトウェア運動のGNU宣言は、プログラミングとプログラマのことだけを語っているのではない。そこでは、働くこと(この場合はプログラミング)を通じてよりよい人間になり、他人を助けるというビジョンも語られている。「プログラマ間の友情の基本はプログラムの共有である。……GNUは共有のモデルであり、共有という行為に参加するよう呼びかけるための旗印である。GNUは参加者に和の感覚を与える。これは、フリーでないソフトウェアを使っていては得られない感覚であり、私が対話したプログラマの約半数にとって、お金には換えられない大きな幸せである」

2002年になると、バチカンは上に一部引用したEiI以外にも”The Church and Internet(「教会とインターネット」)を公表し、「教会指導者は、コンピュータ時代がもたらす力をフルに活用し、すべての人の人間的・超越的使命に奉仕しなければならない」と呼びかけている。インターネットこそ「重要な宗教的・精神的リソースに直接かつ即時にアクセスするための手段である」ことがその理由である。また、すでに1992年に出された司牧指針”Aetatis Novae”において、双方向コミュニケーションと世論が「教会のコムニオ的性格を具体的に発現させるための方法の1つ」であると認識されていたことを指摘している。カトリック教会には、「インターネット上で目に見える活動的存在になり、インターネットの発展に関する公的対話のパートナー」となることが期待され、パートナーとして「倫理的・道徳的基準という大きな問題に指針を与えることで、その発展に寄与する」ことが求められている、とも言う(EiI)。

ファイルフォーマットについてはどうだろう。教会ファイルの格納にどのフォーマットを使うかは、ある意味、アクセスにどのプログラムを使うかにも増して重要な問題である。これから何千年も保存され、読まれつづける公式文書である。耐久性とアクセスしやすさで羊皮紙にも劣るようなフォーマットは問題外である。当然、1私企業の生死によって存在が左右されるようなフォーマットも使うべきではなかろう。

教会への技術的提言

インターネットが全人類にとって重要な出来事であり、これを無視できないことは、カトリック教会も認識している。だが、私の知るかぎり、社会的コミュニケーションに関する懸念と勧告をソフトウェアやファイルフォーマット、コンピュータプロトコルにも反映させようという動きは、教会内にまだ(少なくとも公式には)ないようである。

フリーソフトウェア運動は、意図的ではなかったにせよ、結果として、上に引用したすべての教会指針を満たすソフトウェア「機械」を生み出している。フリーのプロトコルとファイルフォーマット(たとえば、OpenDocument)を使えば、社会的コミュニケーション手段についてカトリック教会の思い描いていた理想像は完全に実現される。正しい技術を選ぶだけで共通善が達成されるというものではないが、それを選ぶことは、少なくとも正しい方向への必要な1歩である。

本稿を書きはじめてから、2人のキリスト教聖職者のことを知った。それぞれ独立に私と同様の結論に達した人々である。1人は、Matheteuo Christian Fellowship(バプテスト教会)のParris牧師で、フリーソフトウェアへの切り替えを諸教会(およびその他の非営利団体)に呼びかけ、その移行を手助けする手引き書を何冊か出版している。そのうちの1冊、”Penguin Driven Church Office“(「ペンギンで進む教会事務」)は、ほとんど技術レポートと言ってもよい。中に「Richard Stallman……は無神論者かもしれないが、ソフトウェアに関する彼の見解は、キリスト教神学的にうなずける点が多々ある。プロプライエタリソフトウェアは、隣人を助けようとする私の力を殺ぐ。隣人を助けることこそ、キリスト教信仰の礎であるはずだ」という記述がある。

もう1人はイタリアのカトリック司祭、Don Paolo La Terraである。シチリアのラグーザ教区事務所でカトリック教育・文化・学校・大学関連の事務を管掌しているほか、いくつかの機関で教壇に立ってもいる。Don Paoloは自分のホームページで、「オープンソースの出現とその理念はきわめて福音的である」という確信を述べ、読者に1つの韻文を捧げている。その内容は、フリーソフトウェアの神学的基盤として十分なものではなかろうか。「私はその人の噂を耳にした。そして惜しみなく分かち合う……その人の富を私は隠さない」(「知恵の書」7,13)

カトリック教会全体がこの呼びかけに従うべきだろう。EiIにあった「私的・公的セクターにおける断固たる行動により、デジタルデバイドを縮小し、最終的に消滅させていかなければならない」という一節を思い出してほしい。この目的に向かって、教会はフリーの(上で説明したFreeの)ファイルフォーマットとコンピュータプロトコルを公式に採用し、教会内の通信にも第三者との通信にもそれを使用すべきだと思う。実際的場面では、それは少なくとも次のことを意味する。

  • 世界中のすべてのカトリック機関で、オフィス文書にはフリーの世界標準であるOpenDocumentを採用する。
  • カトリック関係のWebサイトと公式の教会文書では、プロプライエタリなファイルフォーマットを避ける。公式コミュニケーションでも一切受け付けない。
  • カトリック関係のWebサイトがどのブラウザでも表示できることを確認する。

原文