複数の原因が交錯する“厄介な問題”
Aaron Seigo氏によると今回KDE 4が遭遇した状況は、経営理論において“厄介な問題”(a wicked problem)とも呼ばれる「特定の原因が存在する訳でないためその解決法を同定できない」ケースに相当するとしている。同氏の見るところこうした反応は、FOSSの世界で一般に見られる複数の傾向を反映したものなのであり、それが今回は特にKDEにて顕在化したのだということになる。
Seigo氏はまず、バックエンドのテクノロジおよびデスクトップ機能の変化を漏らすことなくフォローし続けるのは、多くのユーザにとって手に余る行為のはずだと前置きしている。そして同氏が投げかけているのは、長年をかけてWindowsとMac OS Xデスクトップと同等の機能を追及してきたKDEは、その目的を達成した次の段階として独自の方向性を模索しだしたのだという見方である。そうした独自の方向というものが革新的な新規性を目指す以上、何があるべき姿かという明確な基準がユーザにとって見えなくなる点が問題となるのだ。
「私たちが何を目指して何を達成しつつあるかは、外部の人間にとっては認識しにくい事柄のはずです」とSeigo氏は語る。「(KDE 4は)特に広範かつ新規性の高い理想を多数掲げているので、毎日の生活レベルで接している人間でない限り、そうした感覚を保持するのは難しいでしょう」
同時にSeigo氏はKDEプロジェクト側の問題として、その運営するサイトやメーリングリストでの「意思疎通の努力において最善を尽くしていなかった場面もあった」のではないかとしている。KDEではコミュニティにおけるその種の発言を管理していなかったが、Seigo氏の見るところ、「実際には問題への関心も薄く他人を信頼してもいない連中」というごく限られた一部の人間が議論の全体を牛耳ることを許してしまい、「そうしたマナーを守らずに声だけのでかい不快な少数の人間が全体的な雰囲気を誘導するようになってしまいました。そしてこうした一種の群集心理に流される形で、総体としての意識が形成されていったのです」という事態に陥っていたのだ。そうした状況の中で冷静な意見は雑音中にかき消されていったのである。
Seigo氏の指摘するもう1つの問題は、KDE側がユーザに誤解を与えたかもしれないという点である。「これは私個人の感想ですが、私たちの持つ開発能力はKDE 3の実現によって証明できたものと無邪気に考えていました。実際KDE 2当時に約束していた目標を追求し、これをKDE 3.5.9にまで熟成させていったのですから。そして今回も、前回と同様の成果を繰り返そうとしていた訳ですが、今度はそうした開発活動をまったく未知の新レベルにて展開しなくてはならなかったのです」
ところがSeigo氏を含めたKDEコミュニティ側のメンバに欠けていたのは、FOSSが普及した現在、そうした過去の経緯を踏まえていない人間がKDEユーザの多くを占めるようになり、同氏が期待したような古き良き信頼関係には依存できない状況になっていたという現状認識である。
また同氏は、「ユーザの間に自分達は消費者であるという意識が主流となって、これはユーザも参加するタイプの開発活動であるという認識がなかったのですね」という点も指摘している。つまり、一部のユーザはプロジェクトへの貢献という考えを端から持たず、自分達は要望を聞いてもらう権利を有すカスタマだという意識の下で反応し、不満の意見を聞き届けてもらうには声高に騒ぎ立てるしかないと思い込んでいたのだ。
今回の問題を複雑化させたその他の要因としてSeigo氏が指摘するのは、KDE 4.0に対する個々のディストリビューションごとの扱い方の違いである。例えばopenSUSEのようにある程度の時間をかけてKDE 4を親和させた上で、これを試験的なオプションの1つとして提示したプロジェクトもありはしたのだが、その他のプロジェクトでは「まともに動作しない状態のパッケージをリリースしているところもありました。今日の状況では、ディストリビューションでの同梱版を完成品として受け取られるケースも多くなっています。ですから、ディストリビューション側での扱いが不味いと、それは私たちの失態だと見なされる訳です」という状態になっていたのだ。
またKDEプロジェクト側の期待に反して、KDE 4は実験段階の開発バージョンに過ぎない点をユーザに周知させていなかったディストリビューションも存在していたのである。そうしたディストリビューションの多くは、KDE 3の利用するQt 3ツールキットのサポートが7月1日をもって打ち切られるといった、その他多くの要件の方を重要視していたようだ。つまりディストリビューション側の意識としては、サポートの停止されたライブラリに依存したリリースをある程度の期間継続するか、それくらいならいっそKDE 4.xを同梱するべきかという二者択一を迫られていたのである。群雄割拠する今日のディストリビューション群にとって、どこがいち早く最新ソフトウェアを取り込むかは1つの競争となっているため、その多くはKDE 4の同梱に手を出す結果となったのだ。
そしてこうした決断は、多くのケースにおいて不満を増加させる結果になってしまった。例えばFedoraのメーリングリストでは、KDE 4の完成度に対する辛辣な不満を多数のユーザが延々と愚痴り続けることになり、それと同時に、次のリリースにてKDE 3.5.9パッケージの使用を継続する上でどのような措置が執られるのかを質問するユーザも一部存在するようになったのである。
Seigo氏によると、FOSS関連のマスメディアも混乱の醸造に一役買っていたようである。否定的なリアクションは派手に騒いでいた分だけジャーナリストの目にも映りやすく、あるいはこの問題に実際以上の注目を浴びせることが正義であるかのように錯覚させたのかもしれない。こうして、責任者の不手際を見つけようとする意識が生まれた結果、否定的な見方にウェイトを掛けるバイアスが形成され、肯定的な意見を無視しつつ批判的見解を一方的に増長させるという悪意の循環が定着したのだ。
Seigo氏の見るところ、これらのマスメディアはFOSSを擁護するのではなく敵対的立場を取るジャーナリズムへと変質しており、そんなものは「断じて存在すべきではありません」ということになる。FOSS関連のマスメディアの果たすべき役割からすれば「KDEを取り巻いていた偏見を解消することに尽力するべきだったはずなのに、それを怠ったのです」というのがSeigo氏の主張なのだ。
「結局のところあなた方もこうした機構の歯車の1つとして関与しているはずですよ」と同氏は語る。「正しい内容が報道されているか、公正な記述であるかを見極めるという点で、その責任は特に大きいですね。こうした立場からはもう逃れられないところまで来ていますよ」。とどのつまりKDE 4に関してFOSS関連のマスメディアは、そうした責任を果たせなかったということになる。
その一方でSeigo氏は、前述したLinux Hater's Blogなどのサイトに対する辛辣なメディア批判は今のところ手控えているそうだ。「ああした風刺が効いている訳でもなく単なる子供じみたネガティブな意見の羅列に対して、一定の支持が集まったのは悲しむべき事実です。風刺を効かせた批評と単なる暴力的な発言の間には、明確な一線というものが存在します。暴力的な発言を使わなくても、持論を展開することはできますよね」
