記録するということ

「:-)」を横から見て「人間の笑顔」、あるいは意味的に「(笑)」と読ませるのを、英語圏ではオリジナルの(タイポグラフィカル)スマイリー(Typographical Smiley)と呼ぶ。現在では膨大な種類に達した、いわゆる「顔文字」(emoticon)の元祖である。顔文字というと今では当たり前の存在で、それゆえその重要性が語られることもあまりないが、トーンや大きさで感情を表現できる声を使わずとも、文字だけで様々な感情やニュアンスを明示的に表現することが出来るようになったという点では、これは人類のコミュニケーションにおける革命なのである。まあ、そんなに大げさなものじゃあないですかね :-)

ところで、オリジナルのスマイリーは、カーネギーメロン大学の教授スコット・ファールマン氏が、1982年9月19日午前11時44分に学内のとある電子掲示板で使用したのが最初とされている。2002年、戸棚で埃をかぶっていた当時のVAX用バックアップ磁気テープが発掘され、ようやくこのことが確認された(本家Slashdotの記事)。調査は難航したそうだ。何せ、まだまともに動く9トラックテープドライブを探してくることから始めなければならなかったのである。さらに、当時のテープのいくつかはすでに劣化していて、読み取ることすら出来なかったとも聞いている。ようするに、私たちは運が良かっただけなのだ。

ScienceDailyの記事によると、磁気テープは10年以内にも劣化し、読めなくなってしまう可能性がある。保管期間が数十年ともなればなおさらだ。たとえば、1976年に火星調査機バイキングが送ってきたデータは、NASAで保管されていたにも関わらず、テープが駄目になって読み取れなくなってしまっているという。また、1960年度のアメリカ合衆国国勢調査のデータが読めるコンピュータは、世界に二台しか残っていないそうだ。一台はスミソニアン博物館に、そしてもう一台は、なぜか日本にあるらしい。どこにあるんでしょうね。

私自身、本業の都合で最初期のLinuxカーネルのアーカイヴをすべて調査したことがあるのだが、本家kernel.orgに置いてあるものすら、いくつかは壊れていて展開できなかった。おそらく、kernel.orgに移す前、誰かの手元にあった時点でおかしくなっていたのだろう。まともなバージョンは、もはやどこにも残っていないのではないかと思う。これにより、たとえば最初期のLinuxカーネルにはどのような順序でコードが追加されていったのか、大まかにはともかく完全に追うことは出来なくなった。といってもLinuxカーネルなどはまだ良いほうで、多くのオープンソース・ソフトウェアでは、初期のバージョンなどそもそも作者の手元にすら残っていないのが普通である。

電子メールのやりとりも、メーリングリスト等に送られてアーカイヴ化されたものはともかく、個人間のやりとりは容易に失われてしまう。実際、1999年より以前に私がやりとりしたメールの大半は、先年起きたハードディスクのクラッシュと共に永遠に失われてしまった。自分で言うのもなんだが、その一部は、たぶん私以外にとってもそれなりに興味深いものだったはずである。また、あるソフトウェア開発プロジェクトの歴史を考える上で極めて重要な意味を持つサイトが、いつの間にかサイトごと消滅していたということもあった。Internet Archiveはおろか、Googleキャッシュすら残っていないのである。

公的、私的を問わず、多くの資料が電子媒体でのみ保存されるようになってきた以上、この種のいわば「電子考古学」とでも言うべき営みが、今後はいっそう重要性を増すと思われる。しかし、このままでは先行きは非常に暗いと言わざるを得ない。1000年単位で保存できることが証明されている紙媒体と違い、電子媒体は私たちが思う以上に脆弱で保存が利かないからだ。磁気テープのみならず、CD-R/DVD-Rにしても、ハードディスクにしても、10年保たないと思っていたほうが安全だろう。比較的物理的な耐久性が高いとされるMOディスクやフラッシュメモリにしても、実際問題としてどれくらい保つかどうか。また、仮に媒体そのものは無傷で残っていたとしても、それを読み取る手段を調達するのが極めて難しいという場合もある。定期的に新メディアに移し替えれば良いとは言っても、量が多くなればこれは容易ではない。

その意味で、これだけ情報が氾濫しているにも関わらず、私たちは同時代の文化を記録し、後世に残すのに、本質的な意味では失敗し続けているような気がしてならないのである。たとえば100年後、現在の日本のネット文化の実態を示す資料が、書籍や論文に引用されたわずかなものを除けばほとんど何も残っておらず、結果としてひどく歪んだ解釈が横行するという事態になっても、私はそれほど驚かないだろう。21世紀における日本でのネット・コミュニケーションは、スレッドフロート型掲示板と呼ばれる形態が一般的であった、なんてことが、通説になっている可能性すら無くはないのである。50年、100年後を見据えた情報保存のあり方とそのための具体的手法を、真剣に検討すべき時期に来ていると私は思う。

といっても個人のレベルでそこまでパラノイアックに頑健な記録を追求する意味はないので、ここはやはり公的機関が主導してやる必要があると思う。加えて、歴史的に重要な資料というのは、それが作成された当時においては実にくだらないもの、場合によって違法なものとすら思われていた場合が多い。逆に、当時は尊重されていたものが、現在となってはほとんど何の価値も持たないということもよくある。結局のところ、私たちが資料の値打ちを同時代において正確に評価することはほとんど無理なのであって、残す意味があるとかないとか、そういったことを軽々しく言ってはいけないのだ。その意味でも、それなりに中立的な主体が無選別全確保を原則にデータ収集を行ったほうが良いだろう。日本で言えば国立図書館の取り組み(WARPなど)もあるが、まだまだ質量ともに全く十分ではない、というのが正直なところである。

特に日本において、この種のデジタルアーカイヴィングの試みを妨げている一つの要因が、硬直した法制度、特に著作権法だ。ある意味、文化の振興と保護を名目とした著作権法がまさしく文化の振興と保護を妨げているとも言えるわけで、商業的な検索エンジンのサーバを日本国内に置いてよいか、などといったレベルで未だに話がうろうろしているようではお話にならない。最近ではようやくフェアユースの導入が議論されるなど、少しは状況に改善も見られるようになってきたが、そこで止まってしまっては仕方がないのである。

そんな問題意識もあって、私どもMIAUでは今週末、今年話題となった「ネット法」構想について勉強会を開催することにした。私自身は、今表に出ている「ネット法」が現在の著作権制度が抱える問題へのドラスティックな解決策になるとは(少なくとも現時点では)思わないけれども、このような形で現行の著作権スキームに対して何らかの具体的な対案を出していくということは、今後いよいよ重要になっていくだろうとは思っている。考えるべきこともやるべきことも多いのだ。興味のある方は、ぜひご参加いただきたい。