オープンソース・キャンペーンの目的
そもそもエリック・S・レイモンドらオープンソースの主唱者が、「フリーソフトウェア」に代わり「オープンソース」という概念を新たに打ち出すことで狙っていたのは、熱心な開発者ならざる一般ユーザ層への、(法的状態としての)オープンソースソフトウェアの普及と浸透だった。そのためには、ユーザの自由だのライセンスだのといった重要だが迂遠な話より、何かもっと分かりやすい、キャッチ―な話が必要とされた。そこで、彼らが「オープンソース」という話を一般向けに売り込む際強調したのは、「こうすればソフトウェアの開発はうまく行く」というような、具体的な方法論や成功譚、すなわち後者のほうだったのである。
レイモンドらのキャンペーンは大成功を収め、「オープンソース」なる言葉は人口に膾炙した。また、確かにオープンソース・ソフトウェアは、それまで以上に広く使われるようになった。これは偉大な達成である。しかし、その達成に大きく貢献したのは、前者の意味でのオープンソースではない。明らかに後者である。結果として、今となっては「オープンソース」のイメージにはどうしても後者が含まれてくるし、それを真に受けた人を責めることは出来ないと私は思う。すなわち「オープンソース」という概念は、事実上その最初期から、本質的にはレイヤーを異にする二つの要素を含んだ二面的なものだったと考えるべきなのである(ちなみに、「フリーソフトウェア」や「クリエイティヴ・コモンズ」という言葉には、オープンソースで言えば前者の意味合いしかない)。オープンソースを巡る議論が往々にして錯綜しがちなのは、おそらくこのへんに問題があるのではないだろうか。だとすれば、少なくともオープンソースについて本格的に議論する際には、自分がどちらの要素について言及しているのか、常に意識し、明示したほうが良いと私は思う。
ちなみに、レイモンド自身は、「伽藍とバザール」続編の「ノウアスフィアの開墾」や「魔法のおなべ」を読めば分かる通り、最初から後者のほうを重視していた。だから、彼に限っていえば、ご都合主義で突然宗旨替えをしたというわけではない。また、海外でもソフトウェア開発やライセンスとは全く無関係の分野において「Open Source~」と表現されることはままある。ただ、私が知る限り、オープンソース・ライセンスが適用されていないソフトウェアをオープンソースであると呼ぶケースは、洋の内外を問わず近年激減したのではないかと思う。開発形態としてのオープンソースだけで「オープンソース」と呼んでしまうことはあるが、少なくとも法的状態としてのオープンソースが何であるかについては議論の余地がない、ということだろう。それはそれで喜ばしいことである。
