耕地のアナロジー
思うに、法的状態としてのオープンソースとは、畑を耕すようなものである。畑を耕しても作物が育つとは限らないし、耕さなくても育つことはある。しかし、耕してあれば育つ可能性は高まるし、自分は無理でも、誰かが育てる役には立つかも知れない。多くの場所が耕されれば、より多くの作物が育つようになるだろう。多くの人は育った作物にしか興味がないが、農夫は畑を耕すことの重要性をよく知っている。同様に、本格的な開発者であれば、開発形態としてのオープンソースによってソフトウェアを「育てる」上で法的状態としてのオープンソースがいかに効いてくるか、経験的によく知っているのである。
逆に言えば、一般的なユーザやカジュアルな開発者にとっては、法的状態としてのオープンソースというのは意味が分かりにくいのではないかと思う。そもそもタダならソースコードなんか公開されていなくてもいいじゃないかという人もいるだろう。ソースコード公開の重要性は認めても、非商用目的でのみ、研究目的でのみ利用できればそれでいいじゃないか、という人もいるのではないかと思う。会員制のサイトでのみ公開できればそれでいいじゃないか、特許に抵触するならライセンスを得ればいいじゃないか、著作権者と毎回直接交渉すればいいじゃないか、そもそもライセンスなんか無視したってバレなければいいじゃないか…おおまかに言って、厳密にはグレーでも、とりあえずタダで使えて、ちょっといじったものを自分のウェブサイトに置いて匿名掲示板で告知するくらいが出来ればそれで良いではないか、という程度の人は、おそらく相当数いるはずだ。それで何かおとがめがあるということも、実際のところほとんどあるまい。
確かに、耕さなくても作物はそれなりに育つ。あなたにとってはそれで十分かもしれない。しかしそれは結局のところ、本来あるはずのオープンソースのポテンシャルにあらかじめ枷をはめ、可能性を狭めてしまっているに等しいのである。法的状態としてのオープンソースを確保することによって始めて、オープンソース・ソフトウェアはお目こぼしによる子供部屋から、正当性をもって広い社会へと出て行くことが出来るのだ。おそらくここが、熱心な開発者以外に前者の重要性を説明する際、なかなか理解してもらいにくいところではないかと思われる。
