むすび
「オープンソース」が語られる際、開発形態としてのオープンソースに脚光が当たるのはある意味で仕方のないことだ。しかし、開発形態としてのオープンソースのみをもって「オープンソース」と称することには、やはり慎重であって欲しいと私は思う。そこには、少なくとも現在のオープンソース界の隆盛を築いた要素の一つが欠けている。
素晴らしい作物にのみ目が奪われると、土地を耕すことの重要性は次第に忘れ去られていく。誰も耕さなければ、土地は荒れる。確かに荒れ地でも作物は育つ。しかし、荒れ地で作物を育てるには、従来の何倍もの労力を必要とする。収量も減るだろうしリスクも増す。そもそも作物を育てなくなる人も増えるだろう。そうなると、中長期的には、見渡す限りの荒野と、その中ではある程度自由に耕作できるものの、所有者にがっちり管理され、囲い込まれたわずかな荘園が残るだけではないだろうか。私が懸念しているのは、そういうことだ。「オープンソース」を巧みにブランドイメージに取り込みながら、開発形態としてはともかく、法的状態としては実のところ何らオープンソースではないという製品やサービスは、現在でも決して少なくないのである。
少なくとも私たちが「オープンソース」を語る際は、常に法的状態と開発形態の二面、特に前者の重要性を念頭に置いて議論すべきだと私は考える。オープンソースの生態系を律し、成長を促す仕掛けは、全てそこにあるからだ。さもなくば、私たちは、緩やかに「1984年」の世界へと戻っていくことになるだろう。ジョージ・オーウェルが描き出した幻想の1984年ではない。リチャード・ストールマンが広がりゆく「荒野」に絶望してGNUプロジェクトを立ち上げ、フリーソフトウェアを世に送り始めた、実際の1984年にである。
