インターネットに対する楽観論と悲観論

インターネットが私たちの生活に影響を与えているということに関しては、もはや疑問の余地はない。問題は、それが良い影響であるか、悪い影響であるかということである。

楽観論と悲観論

インターネットが社会に良い影響をもたらすと思っている人を、ここでは「インターネット楽観論者」(internet optimists)と呼ぶことにしよう。逆に悪い影響をもたらすと思っている人を、「インターネット悲観論者」(internet pessimists)と呼ぶことにする。

私が見たところ、両者には個々の論点に対する意見の違いというレベルを越えて、かなりはっきりとした、一貫したスタンスの違いがある。青色ガラスを通せば世界は青く、赤色ガラスを通せば世界は赤く見えるというのに似て、同じものを見ても評価がまるで違うということがありうるのである。

もちろん、何だか訳が分からないものとしてむやみにインターネットを忌避したり、逆に手放しで礼賛したりするような手合いは論外だ。それなりにインターネットの仕組みに精通した人々の間で、にも関わらず評価が分かれることが多い、というのが興味深いところなのである。おそらく、突き詰めればその違いが、合理的判断や計量的評価というよりは個々人の信念や好み、価値観の領域に属するものだからだろう。

両者が対立する論点のうち、主なものを表にまとめると以下のようになる。これは別に私のオリジナルではなく、ブログThe Technology Liberation FrontのAdam Thierer氏がかつて提案していたものを訳して若干手を加えたものだ。なかなかうまい論点抽出だと思うのでご紹介したい。

インターネット楽観論者の見解 インターネット悲観論者の見解
文化 / 社会
ネットは社会への参加を促す ネットは社会の分極化を促す
ネットは個人化、パーソナライズをもたらす ネットは個人の断片化、孤立化をもたらす
「グローバルな一つの村」のイメージ 「小国分立」「バルカン化」のイメージ
異種混交/ 思想の多様性をもたらす 同質性/ 思想の均一化をもたらす
ネットは民主主義を支持する傾向を生む ネットは反民主主義的な傾向を生む
ネットは解放とエンパワーメントのツールである ネットは多くの場合悪用と濫用のツールである
経済 / ビジネス
「フリー」であることの利益を重視(「フリー」 = 「自由」 = メディアやビジネスの未来) 「フリー」であることのコストを重視(「フリー」 = 「無料」 = メディアやビジネスの終焉)
これからは贈与経済の重要性が増大 所有権、利潤、企業が引き続き重要
「Wiki」モデル =群衆の叡智、集合知の力を信奉 「Wiki」モデル = 衆愚、集合知の誤謬を問題視
マスコラボレーションの力を重視 個々人の努力を重視

インターネットのゆくえ

読者の皆さんはどちらに属するだろう。先の選挙中は大手新聞各社がボートマッチというのをやっていたが、同じような気分で自分の感覚に近い見解を選んでみると面白いのではないかと思う。

私自身の考えを述べれば、現時点においては楽観論も悲観論もそれなりに正しく、まさに拮抗しているのだと思う。拮抗しているからこそ見解も分かれるわけだ。どちらの見解も正当であると見なせるだけの実例を、私は知っている。まさに功罪相半ばするというところである。

では今後どちらに天秤が傾いていくか、ということになるが、これはほとんど賭みたいなものとはいえ、個人的にはやや悲観的な見通しを持っている。

自由なインターネットがもたらす可能性には驚くべきものがある。その力を私は完全に認める。情報が情報を生むダイナミズムは圧倒的である。

しかし、インターネットを完全に放っておくと、悲観論者が予見するような好ましくない状況に行き着く可能性が高い。そもそも人間は多くの場合、自由に耐えて自分を律しうるほど強い生き物ではない。かつて「インターネットとは人間がどこまで愚かで下品になれるかの壮大な実験場だ」と喝破した人がいたが、私の感覚もそれに近い。

よって、適切な規制やルールが必要となるのだが、どうも基本的な流れとして、インターネットの長所を損なう(そして実のところ別に短所を実質的に矯めるわけでもない)規制のほうが政治的、社会的には支持を集めやすく、また短所を助長するだけで長所の存在を危うくするようなルールや仕組みのほうが、広く一般からの支持を集めやすいように思われてならないのである。このような理由から、今後状況は悪くなる一方なのではないか、というのが、私の率直な見方だ。もちろん、私自身は微力ながら、こうした傾向に抵抗していくつもりだが、これはしんどい戦いになりそうである。