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faif_10.html
最終更新
2003-04-20 21:52
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(del#1141)
概要
『Free as in Freedom』の第10章「GNU/Linux」の訳文です。
言語
日本語
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第10章 GNU/Linux

10 GNU/Linux

1993年までに、フリー・ソフトウェア運動は岐路に立っていた。楽観的に受け止めれば、ハッカー文化の成功へと向けて、サインがすべて指し示されていたことになる。データ暗号化やUsenetやソフトウェアの自由についての記事を配信するファンキーで新しい雑誌Wiredは、書店の雑誌棚から飛び出すような勢いだった。インターネットは――かつてはハッカーや研究者だけが使うスラングだったが――、一般的な用語へと認められた。それは、クリントン大統領だって使っていた。パソコンは――かつては趣味人のおもちゃだったが――、ハッカーが作ったソフトウェアにアクセスするというコンピュータ・ユーザによる、まったく新しい世代を生み、本格的規模の社会的地位を占めるにまで成長した。そして、GNUプロジェクトがフリー・ソフトウェアOSという最終ゴールへといまだたどり着かない一方で、好奇心のあるユーザたちは、かえって、当分の間は、Linuxを試すことにしたのだった。

どこから見ても、それは良いニュースだった。いや、そう見えたのだ。10年の奮闘の末、ハッカーとその価値感が、ついに、一般社会で受け容れられたのだ。ひとびとはそれを採り入れていたのだった。

彼らはどうだったか? 悲観的に受けれ止めれば、受け容れのサインひとつひとつが、逆にやっかいごとを運んできた。たしかに、ハッカーたることは、突然クールなものになった。でも、それは疎外感で育ってきたコミュニティには良いクールさだった。たしかに、ホワイト・ハウスは、インターネットについて、どれも適切なこと言っていた。自らのドメイン名whitehouse.govを登録までした。でも、また、企業や検閲や支持者や法執行当局が、フロンティア時代の西部のようなインターネット文化を手なずけるよう、会合を持っていたのだが。たしかに、PCは一層パワフルになった。でも、自分のチップでPCを必需品にしようと、Intelが、プロプライエタリなソフトウェアのベンダーが力を持つように状況を作り出していた。Linuxによってフリー・ソフトウェア主義に改宗させられた新しいユーザは誰しも、数百人、おそらくは数千人は、最初は、Microsoft Windowsを起動させていたのだった。

Linux自体には、決定的に珍しい深い成り立ちがあった。(GNUのような)設計上のバグや(BSDのような)法的紛争にはとらわれずにいたため、Linuxの急速な進化は予想だにされていなかったし、その成功は多分に偶然のものだったしで、ソフトウェア・コードに精通しているだけのプログラマたちは、それが何でできているかを知らなかった。OSというよりはコンピレーション・アルバムであり、それは、ハッカーのグレイテスト・ヒッツをメドレーにした構成だった。つまり、GCC、GDB、glibc(GNUプロジェクトが新たに開発したCライブラリ)というものから、X(MITコンピュータ科学ラボが開発したUnixベースのグラフィカル・ユーザ・インタフェース)、BIND(Berkeley Internet Naming Daemonといい、これによりユーザは数字のIPアドレスからホインターネットのドメイン名を用意に取得できる)のようなBSDで開発されたツール、TCP/IPまでが、そのすべてだった。そのアーチのキャップストーンは、もちろん、Minixから生まれ出て超改訂が加えられたLinuxカーネルそのものである。スクラッチから自分たちでOSを作り上げるよりは、トーバルズとその急速に拡がる開発チームは、こんなピカソの名言に従ったのだ。「優れた芸術家は模倣するが、偉大な芸術家は盗む。」トーバルズ自身が、後に、彼の成功の秘訣を語るとき、これをこう言い換えた。「ぼくは基本的に怠け者で、ほかの人のしてくれた作業を自分の仕事だと称するのが好きなんだよ。」(*82)

そんな怠惰さは、効率性の観点からは賞賛される一方で、政治的な観点からはやっかいを起こした。一例として、トーバルズにはイデオロギー的なアジェンダを欠いていると、それにより強調された。GNU開発者には似ず、トーバルズは、他のハッカーたちに一緒に何か取り組むべきものを与えるという願望の発露から、OSを作っていたわけではなかった。つまり、彼は、自分自身で楽しむ何かが欲しくて、それを作っていたのだ。トム・ソーヤがフェンスに水しっくいを塗るのと同じで、トーバルズの天才さは、全体的なビジョンには少なめに、作業の速度をあげるための他のハッカーのリクルートには多めに、あったのだった。

そんなトーバルズと彼のリクルートは、他の人であればないような、やっかいな問題をもたらした。正確には、何を以ってLinuxというのか? ストールマンがGNU宣言において最初に明確にしたフリー・ソフトウェアの哲学の表明はそこにはあったのか? いやそれとも、それは、同じような動機をもったユーザなら誰でもが自分の家のシステムにアセンブルできるようなよくできたソフトウェア・ツールの単なる融合物だったのか?

1993年の後半までに、膨張するLinuxユーザたちは、あとの方の定義へともたれかかり始め、Linuxをもとにしてプライベートな派生物を醸造し始めた。彼らは、ボトル詰めをして、自分らの派生物――つまり、「ディストリビューション」――をUnixの熱狂的ファンへと売りさええするほどずうずうしくなった。その結果は、よく言っても、むらがあった。

「これは、Red Hatや他の商用ディストリビューション以前のことだ。」当時、パデュー大学のコンピュータ科学の学生だったイアン・マードックは回想する。「Unixの雑誌をパラパラめくってみると、『Linux』を賛美する名刺サイズの広告ばかり見つかるだろう。ほとんどの会社では、自分たち独自のソース・コードをちょこっとまぜこぜにして何も問題がないように言う、あやしげなことをやっているんだ。」

Unixのプログラマだったマードックは、Linuxを、彼の家のPCに初めてダウンロードし、インストールして、「魅せられた」ことを忘れていない。「そこには、楽しみがいっぱいあったんだ」と、彼は言う。「それで、関わってみたくなったんだ。」とはいえ、できそこないのディストリビューションの急増は、が彼の興をそぐようになった。余計なもののついていないLinuxを作るのが、一番いい関わり方だと決めて、マードックは、彼のディストリビューションに取り込んでやろうと、利用可能な、ベスト・フリー・ソフトウェア・ツールをリストしはじめた。「ぼくは、Linuxの名に恥じない何かがほしかったんだな」と、マードックは言う。

「興味をそそらせる」べく、マードックは自分の考えを、Usenetのcomp.os.linux newsgroupなど、インターネットに投げた。最初に返ってきた電子メールのメッセージのうちのひとつは、rms@ai.mit.edu。ハッカーとして、マードックは、即座にそのアドレスを理解した。リチャード・M・ストールマン。GNUプロジェクトの創始者であり、マードックが「ハッカーのなかのハッカー」として知っていた人物だった。メール一覧中のそのアドレスを見て、マードックは戸惑った。いったいなぜ、ストールマンが、つまり自分のOSプロジェクトを率いている人物が、マードックがLinuxに対して抱く不満に気にかけるのだろうか。

マードックは、メッセージを開いた。

「彼が言うには、フリー・ソフトウェア財団はLinuxをしっかり観察し始めていて、FSFでは、ことによるとLinuxシステムでやってみることにも興味を持っているのだ、と。ストールマンは、我々のゴールと彼らの哲学が大筋では一致していると思っているようだった。」

そのメッセージには、ストールマンの劇的な方向転換が示されていたのだ。1993年まで、ストールマンは、Linuxコミュニティで起こっていることには首を突っ込まないことで満足だった。実のところ、彼は、Unixプログラミング界に、1991年、初めて登場した反逆的なOSを除けば、すべてを手に入れていたのだった。最初に、PC上で動作するUnixライクなOSが出たという知らせを受け取ると、ストールマンは、その新しいOSのテストをある友人に委託した。ストールマンは思い出して言う「その新しいOSはSystem Vをモデルにしている、と彼は報告してよこした。System Vというのは、Unixの下級バージョンだ。彼がまた言うに、そのOSはポータブルじゃない、と。」

その友人の報告は正しかった。386マシンで動作するように作られていたので、Linuxはロー・コストなハードウェア・プラットフォームにしっかり根づいた。とはいえ、その友人が報告しそこねたのは、市場において唯一の自由に改変できるOSとして、Linuxには非常に大きな利点があるということだった。言い換えると、次の3年間は、ストールマンは自らのHURDチームからバグ・レポートに耳を傾けることに費やすことになるのだが、その一方で、トーバルズは、そのOSを後に追い払ったり、新しいプラットフォームへと移植するであろうプログラマを味方に引き入れていたのだった。

1993年までにGNUプロジェクトが動作するカーネルを配布できなかったのは、GNUプロジェクトと、フリー・ソフトウェア運動一般の、両方に問題となっていた。1993年3月、Wiredのシムソン・ガーフィンクルによる記事では、GNUプロジェクトのことを、たくさんのツールで成功した割には「行き詰まった」と書かれた。(*83)プロジェクト内の人間や、ボランティアの助っ人フリー・ソフトウェア財団は、ガーフィンクルの記事があばいたよりずっとムードがずいぶん悪くなったのを忘れていない。「そこに新しいOSを取り入れる機会への窓が開かれていたことが、少なくともそのときのぼくにとっては、非常に明らかだった」と、Chasellは言う。「そして、一度、その窓が閉じられてしまうと、ひとびとは興味をなくしていった。これこそが、ずばり起こったことだよ。」(*84)

1990年から1993年にかけて、GNUプロジェクトの奮闘に関して、たくさんのものが生み出された。そんな奮闘をするストールマンに非難を浴びせるものも現れたところで、GNU Emacsチームの初期メンバーであり後にはストールマン批判を行っているエリック・レイモンドが言うには、問題のほとんどは組織だ、と。「FSFは傲慢になった。」レイモンドは言う。「OSを製品として準備するころから、OSのリサーチへと目標を後ずさりさせたのだ。」こうも悪くさえ言う、「彼らは、FSF外部からは、影響を受けないと考えているのだ。」

マードックは、当事者としてはGNUプロジェクトの内部事情にはさほど通じてなかったが、より寛大な見方をしている。「問題の一部は、大志を抱きしすぎて資金を浪費したことだった、と思う」と、彼は言う。「80年代後半から90年代前半まで、マイクロカーネルは、ホットな話題だった。まずいことに、それは、GNUプロジェクトがカーネルの設計をはじめた頃のことだった。結局、彼らは、たくさんのゴミを生み出して、後戻りをしてそれを失うに終った。」

その遅れを説明するとき、ストールマンはたくさんの問題点を取り上げた。ロータスとアップルの訴訟によって、政治的な邪魔が入った。それによって、ストールマンは、タイプ出来なくなって、HURDチームに手を貸すのが厳しくなった。それから、ストールマンは、GNUプロジェクト内の各部分同士のコミュニケーション不足を取り上げた。「仕事する環境をデバッグするためにしなければならない仕事でいっぱいいっぱいだったんだ。」彼は回想する。「また、当時GDBのメンテナンスをしていたひとたちは、そんなに協力的ではなかったのだ。」でも一番は、ストールマンや、他のGNUプロジェクト・チームのメンバーが、Machマイクロカーネルを、本格的なUnixカーネルにまで拡張する難しさを過小評価していたことだと、彼は言う。

「マシン側とやりとりをする[Machの]部分は、すでにデバッグ完了している、オーケーだ、と僕は理解した。」2000年のスピーチに登場した、HURDチームのトラブルを思い出して、ストールマンは言う。「そんな幸先の良いスタートをきったから、もっと速くやり遂げられると思ったんだ。とはいえ、そういった非同期マルチスレッド・プログラムのデバッグはえらく大変だった。ファイルを破壊するようなタイミング・バグがあったりで、まったく楽じゃなかった。結局、テスト・バージョンを作り上げるのに、何年も、何年も、かかってしまったのだ。」(*85)

言い訳がどうあるとしても、同時期にLinuxカーネル・チームが成功したことは、事態を緊張させた。もちろん、Linuxカーネルは、GPLのもとライセンスされている。ただし、マードック自身が言っているとおり、純粋なフリー・ソフトウェアOSとしてのLinuxを扱おうという願望は、ひとつのものというには程遠かった。1993年の後半までに、Linuxユーザ人口の総数は、Minix熱狂者が10人かそこらだったところから、2万から10万の間のどこかにまでふえていた。(*86) かつては趣味だったものが、成熟して、市場に売り込みをかけられるようになったのだ。ウィンストン・チャーチルが、ソビエトがベルリンへと占領開始するのを見ていたように、ストールマンは、Linuxの「勝利」を祝うときを迎えたことに、感情が入り混じっているのを理解していた。(*87)

祝勝会に遅れたとはいえ、ストールマンには、それでも強い影響力があった。フリー・ソフトウェア財団は、マードックのソフトウェア・プロジェクトへの出資と奨励を行うことをアナウンスするとすぐ、他の支援も開始した。マードックは、Debian――彼とその妻Deborahの名前を合わせている――という新しいプロジェクトを派生させ、数週間内に、最初の配布を開始した。「[リチャードのサポートは]、おもしろいけれどちっちゃなプロジェクトだったDebianを、コミュニティの人間が注目しなければならないものへと、一夜のうちに突き動かしたのだった」と、マードックは言う。

1994年1月、マードックは「Debian 宣言」を発表した。10年前のストールマンの「GNU宣言」に代わるもので、これは、FSFと近いところで働くことを重要性を説明している。マードックはこう書いた:

Free Software Foundation は Debian の将来にとって大変重要な役割を果たします。Free Software Foundation が Debian を配布するという単純な事実によっても、Linux が商用の製品ではなく、今後もけしてそうはならないこと、しかし Linux が商業的な競争にけして勝てはしないとは意味しないことを世に知らしめることになります。同意しない人は、GNU Emacs と GCC が成功していることを理由付けしていただきたい。これらは商用の製品ではありませんが、商用であるかどうかにかかわらず市場に甚大な影響を与えてきました。

Linux 共同体全体とその未来に迷惑をかけて自分が裕福になるという破壊的な目標を目指すかわりに、Linux の未来に集中するときがきました。Debian を開発し配布しても、この宣言で概略を述べた問題への回答とはならないかもしれません。ですが、少なくとも、これらの問題が解決すべき問題として認められるくらいには Debian を通して注意を引きたいと望んでいます。(*88)

宣言のリリース後すぐ、フリー・ソフトウェア財団から最初の大きなリクエストがあった。ストールマンは、マードックに、そのディストリビューションを「GNU/Linux」と呼ぶようにと欲した。マードックが言うには、当初ストールマンは、「Lignux」――「その中核部分にGNUを用いているLinux」――ということばを使いたがっていたという。しかし、Usenetやいろいろと適当なハッカーのフォーカス・グループでその言葉を使ってみたところ、その甲斐あって、ストールマンは、さほど不恰好ではないようにGNU/Linuxと呼ぶことにした。

「GNU」という接頭辞をつけようという、ストールマンの提案は、一部に却下されたものの、マードックは、違った見方をしていた。振り返ってみるに、それは、GNUプロジェクトとLinuxカーネル開発者の間に緊張感を高めるべく逆に作用した試みだった、とマードックは見ていた。「そこに、亀裂が生じていたのだ」と、マードックは回想する。「リチャードが憂慮していた。」

マードックが言うには、精神の最も深いところは、glibcにある。GNU C Libraryの短縮形であるglibcとは、プログラマが、カーネルで「システム・コール」に命令するのを可能とさせるパッケージだ、と言った。1993年から1994年にわたって、glibcは、Linux開発上のやっかいなボトルネックとして統合された。非常にたくさんの新参ユーザが、Linuxカーネルに新しい機能を付け加えていったことにより、GNUプロジェクトのglibcのメンテナたちは、すぐに、変更の提案に困惑するようになった。遅れと、GNUプロジェクトに足踏み状態の評判が大きくなっていくことにいらだって、Linux開発者には、「fork」――たとえば、glibcに平行した、ある種のLinux専用のCライブラリ――を作ることを提案した者もいた。

ハッカーの世界では、forkは興味深い現象だ。ハッカー倫理では、プログラマは、与えられたソース・コードで好きなことを何でもできるのだが、ほとんどのハッカーは、中核のソース・コード・ファイル、つまり「ツリー」へと、自分の革新を注ぎ込み、他者のプログラムと相性を確実にすることを好む。Linux開発の早い段階でglibcをforkしてしまうのは、数百の、いや数千もの潜在的なインプットを失うであろうことを意味していた。これはまた、ストールマンとGNUチームがそれでも開発しようと望んでいたGNUシステムと、Linuxの間に、不整合が大きくなっていったということも、それは意味していた。

GNUプロジェクトのリーダーとして、ストールマンは1991年のソフトウェアforkの負の効果をすでに経験していた。Lucisというソフトウェア会社に勤めていたあるEmacs開発者グループが、GNU Emacsのコード・ベースへと変更を採り入れたがらないストールマンと、決裂をした。forkとして、平行したバージョンLucid Emacsが生まれることとなり、またそこには、一面、わだかまりが生じたのだった。(*89)

マードックは言う。Debianは、glibcのソース・コードに似たようなforkに機能を搭載した。これは、Debianがそのソフトウェア・ディストリビューションのリリースをしたときに、ストールマンがGNUの接頭辞をつけろと主張することとなったものだ。「そのforkは、もう収束している。それでも、その当時は、Linuxコミュニティが自らをGNUコミュニティとは別物と見ているとすれば、それは不和を招く力となりかねない、という懸念があったのだ。」

ストールマンは、マードックの回想に同意する。彼が言うには、実のところ、GNUコンポーネントの主要には、どれでもその関係で登場したforkが初期にはあったのだ。そんなforkはすっぱいぶどうの産物だと当初は思っていた、とストールマンは言う。Linuxカーネル・チームの高速で形式ばらないダイナミクスとは対照的に、GNUソース・コード・メンテナたちは、プログラムの実行可能性に影響するかもしれないような変化については、ゆっくりかつ慎重に、長期的な観点で行っていく傾向にあった。彼らはまた、他人のコードをひどく批判するのも恐れていなかった。しかし、いずれ、ストールマンは、Linux開発者たちのメールを読んで、GNUプロジェクトとその目的の存在を、底流に欠いているに悟りはじめていた。

「自分をLinuxユーザだと思っているひとたちは、GNUプロジェクトのことなど気にかけていないのだ、ということに気づいた。」ストールマンは言う。「彼らが言うに、『なんでそんなことに煩わされなければならないんだ? GNUプロジェクトのことなんか気にかけてないよ。それはぼくに役立っているそれは、ぼくたちLinuxユーザに役立っている。それ以外はぼくたちにはどうでもいいよ。』そして、ひとびとが、本質的にはGNUシステムの派生物を使っているのだとすると、それは極めて驚くべきことだった。それに、かれらは、こんなに気にかけていない。まったく誰もGNUのことなど気にかけていなかったのだ。」

GNUプロジェクトの「派生物」としてLinuxを表現する見方がある一方で、マードックは、すでにフリー・ソフトウェアに共感していて、ストールマンから、DebianをGNU/Linuxと呼ぶようにリクエストされるのも合理的なことだと思っていた。「それは、クレジットにするよりも、一体性があった。」彼は言う。

より技術的な部分へのリクエストはすぐにフォローされた。マードックは政治的な問題には慣れていたのだが、実際的なソフトウェアの設計と開発のモデルの話となると、彼は一層しっかりした姿勢をとった。結束の表れとして始まったことが、他のGNUプロジェクトの内部決裂の写しとなってしまったのだった。

「彼には賛成できないところがあったんだ、とは言ってあげられる。」マードックは笑っていう。「誠実なばかりのストールマンと一緒に仕事をするには、かなり難しいかもしれないね。」

1996年、マードックは、パデュー大学を卒業すると、成長するDebianプロジェクトの指揮を引渡すことに決めた。彼はすでにマネジメント任務をブルース・ペレンスに譲り渡していたのだった。ペレンスは、GPLでリリースされているUnixユーティリティのElectric Fenceで最もよく知られたハッカーである。ペレンスは、マードックよろしくUnixプログラマで、そのUnixライクな性能が明らかになると、すぐにGNU/Linuxに夢中になった。マードックよろしく、ペレンスは、ストールマンの政治的アジェンダとフリー・ソフトウェア財団に共鳴したのだった。遠くからではあったのだが。

「ストールマンが『GNU宣言』やGNU EmacsやGCCをすでに発表していたよりも後のこと、彼がインテルのコンサルタントとして働いているという記事を読んだのを、覚えている」1980年代後半、ストールマンとの最初の小競り合いを思い出して、ペレンスは言う。「一方でフリー・ソフトウェアのアドボカシーをしつつ、もう一方でインテルに勤務しているとはどういうことだ、って彼に手紙を書いたんだ。彼は返信して言うに、『ぼくは、フリー・ソフトウェアを作るためのコンサルタントとして働いているんだ』と。その件に関しては、彼は、申し分なく丁寧だったね。それに、彼の返信は、申し分なく理解できるものだと思った。」

とはいえ、卓越したDebian開発者であるペレンスは、ストールマンとマードックの設計上のバトルを落胆して眺めていた。ペレンスは、開発チームのリーダーとして、フリー・ソフトウェア財団からDebianを距離をおくようにと決定を出していた。「ぼくたちにはリチャード流のマイクロマネジメントは要らないと決定したんだ」と、彼は言う。

ペレンスが言うには、ストールマンは、その決定で引き下がったが、それをリリースする知恵はあった。「いつだったか、彼は頭を冷やしてメッセージを投げてきた。本当に仲良くしてくれよ、と。ぼくらに、GNU/Linuxと呼ぶようにとリクエストをしてきた。ぼくは、それで結構だと決断した。一方的にそういう決定をした。誰もが、ほっと息をついたのだ。」

やがて、Debianは、ハッカー版のLinuxとしての評価を築いていくことになる。1993年〜1994年の同時期に確立したもうひとつの人気ディストリビューションであるSlackwareは別として。しかしながら、ハッカー志向のシステムの外側では、Linuxは、商用Unix市場で力をつけていた。ノース・カロライナでは、Red Hatと名乗る会社がLinuxに焦点をあるべく転換していた。CEOはロバート・ヤング。Linux Journalの前編集者であり、1994年には、リナス・トーバルズに質問を投げかけている。カーネルをGPLのもとにおいたことを後悔しているか否か、と。ヤングへのトーバルズの回答は、ヤングのLinuxに対する見方に「深い」衝撃を与えた。昔からのソフトウェア戦略でGNU/Linuxを市場に追いやる方法を模索するのではなくて、たとえば、Debianのようなのと同じアプローチを企業が採用したとしたらどんなことが起こるだろうか、ヤングは考え始めた。フリー・ソフトウェアの部品で、一からOSを組み上げるのだ。1990年に、マイケル・ティーマンとジョン・ギルモアによって設立されたCygnus Solutionsは、品質とカスタマイズ能力を基礎においたフリー・ソフトウェアを販売するという実力をすでに示していた。もしも、Red HatがGNU/Linuxと同じアプローチを採っていたとしたら、どうなっていたことだろうか?

「西洋の科学のしきたりにおいて、われわれは偉人の肩の上に立つ」と、ヤングは、トーバルズとアイザック・ニュートン卿に同意して言う。「ビジネスにおいては、これは、我々がやっているように車輪の再発明をすべきではない、と言い換えられる。[GPLの]モデルの美しさは、パブリック・ドメインへと自分で自分のコードを置ける点だ。(*90) もし、あなたが、独立系ソフトウェア・ベンダーで、なんらかのアプリケーションを開発しようとしていて、モデム・ダイヤラーのツールが必要なら、さて、どうしてモデム・ダイヤラーの再発明をするんだ? 単に、Red Hat LinuxのPPPを盗ってきて、それを、あなたのモデル・ダイヤル・ツールのコアとして使えばいい。もし、グラフィカル・ツール一式が必要なら、自分独自のグラフィック・ライブラリを書くことなんかない。ただGTKをダウンロードしさえすればいい。突然、あなたは、過去のベストなものを再利用する能力を身に付けるわけだ。また突然、アプリケーション・ベンダーとしてあなたの焦点は、ソフトウェア・マネジメントにはより少なく、あたなの顧客のニーズに合わせてアプリケーションを書くことにより多く置かれるのだ。」

ヤングだけが、フリー・ソフトウェアのビジネス上の効率性にひきつけられた経営者ではなかった。1996年後半までに、ほとんどのUnix関係会社が、目を覚まし、ソース・コードの醸造するにおいをかいでいた。Linuxセクターは、商業的にブレイク・アウトするこの1〜2年は、やはりいい年だった。しかし、ハッカー・コミュニティの十分近くにいた者は、こう感じただろう。なにか大きなことが起こる、と。インテルの386チップ、インターネット、それから、ワールド・ワイド・ウェブは、巨大な一連の波のように市場を直撃した。そして、Linux――それから、ソース・コードのアクセシビリティと寛大なライセンスの点でそれに同意したソフトウェア・プログラムの主――は、同じく最も大きな波をかぶっていた。

イアン・マードックは、ストールマンに言い寄られ、後にはストールマンのマイクロマネジメント・スタイルを理解したプログラマであったが、彼にしてみれば、その波は、フリー・ソフトウェア運動にアイデンティティを与えようと非常に多くの時間を割いてきた男に、賛辞を与えることでもあり、罰を与えることでもあるように見えた。多くのLinux熱狂者と同じく、マードックは最初の投稿を見たことがあった。Linuxを「ただの趣味」という最初のお説教を見たことがあった。Minixの作者アンドリュー・タネンバウムに、Linuxのお許しをトーバルズが求めたのを、彼はまた見ていたのだった。「もし、去年の春に、GNUカーネルが用意できていたとすれば、僕のプロジェクトなんか始めたりしないで、煩わせることなどなかっただろうね。」(*91) 大方よろしく、マードックは、チャンスが無駄にされていたのを知っていた。インターネットのまさに屋台骨から新しいチャンスが滲出するのを見る興奮も、彼はまた知っていたのだった。

「Linuxの若い時代に関われたことは、たのしかった」と、マードックは回想する。「同時に、それは、何かすべきことであったし、何か時間を過ごすことであった。もし、[comp.os.minix]の昔のやり取りを振り返ってみれば、郷愁に浸れるだろう。HURDができるまではこれで遊べるんだ、っていうものだった。ひとびとは心配していた。それは楽しかったが、たくさんの意味があった。もしHURDがもっとはやくできていたら、Linuxは決して出てこなかっただろう、とぼくは思う。」

とはいえ、1996年の終わりまでには、そういった「もし…だったら」という疑問は、すでに意味がなくなっていた。Linuxと呼べ、GNU/Linuxと呼べ、ユーザたちは話していた。この36ヶ月の劇は幕を下ろした。もしGNUプロジェクトがHURDカーネルをリリースしようとも、オタクなハッカーのコミュニティの外に居る者には、チャンスはほとんどなかった、ということを意味してつつ。この最初のUnixライクなフリー・ソフトウェアOSは、機運に乗ったのだ。乗りそびれたハッカーは誰でも、次の大きな波が自分の手の中へとやってくるのを待っているのだ。毛むくじゃらの髪のひとり、ストールマンでさえも。

準備はいいかな?

*82 この引用部分、トーバルズはいろいろな言い方をしている。しかしながら、この引用は、エリック・レイモンド著『伽藍とバザール』に出てくるのがもっとも有名で、それに従った。http://www.tuxedo.org/~esr/writings/cathedral-bazaar/cathedral-bazaar/index.html

(訳注: 訳者も山形浩生訳『伽藍とバザール』から引用)

*83 Simson Garfinkel, "Is Stallman Stalled?" Wired (March, 1993).

*84 Chasselの36ヶ月間の新しいOSの「窓」への懸念は、GNUプロジェクト特有のことではない。1990年代初頭、バークレー・ソフトウェア・ディストリビューション(BSD)のフリー・ソフトウェア版に対し、Unix System Laboratoriesによって、BSD由来のソフトウェアのリリースをやめさせようという訴訟が起こされいてた。FreeBSDやOpenBSDといった派生物であるBSDを、パフォーマンスとセキュリティの点で、GNU/Linuxよりも、明らかに優れていると多くのユーザが見ている一方で、FreeBSDとOpenBSDのユーザの数は、GNU/Linuxのユーザ人口数全体からすれば、ほんの一部分のままである。

他のフリー・ソフトウェアOSに比してGNU/Linuxがかなり成功を収めたという分析の例は、ニュー・ジーランドのハッカーLiam Greenwoodによるエッセイ"Why is Linux Successful" (1999)を参照のこと.

http://www.freebsddiary.org/linux.php

*85 マウイ・ハイパフォーマンス・コンピューティング・センターでの演説。続く電子メールで、私はストールマンに、彼の言う「タイミング・バグ」という用語の正確な意味を尋ねた。ストールマンが言うには、「タイミング・エラー」というと、この問題を要約するいい方法だし、タイミング・エラーがいかにOSのパフォーマンスのさまたげになるかという、技術的な情報を明らかにできるだろう。

「タイミング・エラー」は、並行的に行われているジョブが、理論的にどんな順番でも起きる非同期なシステムにおいて生じる。そして、ある特定の順番になると、問題が生じる。

プログラムAがXを行っており、プログラムBがYを行っているところを想像してもらいたい。そこでは、XとYの両方とも、同じデータ・ストラクチャの検査とアップデートを行う短いルーチンだ。コンピュータは、ほぼいつも、Yより先にXを処理するか、Xより先にYを処理するのだが、その場合は、問題がない。非常に稀な場合に、偶然的に、スケジューラが、Xの処理までにプログラムAを実行させ、そして、Yを処理するプログラムBを実行させる。すると、Xが処理中なのに、Yが完了してしまうことになる。干渉するのだ。たとえば、Xがすでにデータ・ストラクチャの検査を行っていたかもしれず、そして、変更がないことを記さなかった、と。そこには、(スケジューラがどちらのプログラムを先に、そしてどれだけ長く実行させるか決定するときの)偶然の要素に基づくため、再現できない欠陥が生じるわけだ。

そういった欠陥を防ぐ方法は、XとYが同時に動いたりしないようにロックすることだ。非同期システムを書くプログラマなら、ロックの全般的な必要性が分かっているのだが、ときおり、ある特定の場所や、ある特定のデータ・ストラクチャにおいては、彼らは、ロックの必要性を見落とす。そういうわけで、そのプログラムには、タイミング・エラーが起きるのだ。

*86 GNU/Linuxのユーザ人口数は、よく言えばおおざっぱなもので、これは、私が、こんなに広いレンジだと言った理由になる。総計100,000というのは、Red Hatのサイト"Milestones"から。

http://www.redhat.com/about/corporate/milestones.html.

*87 頼んだわけでもないのだが、ストールマン自身が、彼自身のチャーチルに関するコメントを送ってきてくれるより先に、このウィンストン・チャーチルのアナロジーを記した。ストールマン曰く、第二次世界大戦と、それに勝つ必要がある決断は、ぼくが育っていく中で、非常に強い記憶だった。たとえば、「我々は、着地地点でも彼らと戦う。我々は、浜辺でも彼らと戦う。…我々は決して屈しない。」というチャーチルの声明には、ぼくはいつも共鳴させられるんだ。

*88 Ian Murdock, "A Brief History of Debian," (January 6, 1994): Appendix A, "The Debian Manifesto."

http://www.debian.org/doc/manuals/project-history/apA.html

(訳注:訳者も http://www.debian.or.jp/Documents.obsoleted/Documents_ja/debian_manifesto_j.html より引用。)

*89 元Lucidのプログラマで、Mozillaの開発チームを率いることになるJamie Zawinskiはウェブサイトを持っており、"The Lemacs/FSFmacs Schism."と題した、Lucid/GNU Emacs forkに関する文書を置いている。

http://www.jwz.org/doc/lemacs.html

*90 ヤングは「パブリック・ドメイン」というこの言葉を、ここでは誤って使っている。パブリック・ドメインは、著作権で保護されているということを意味はしない。GPLで保護されたプログラムは、定義上、著作権で保護されているのだ。

*91 この引用は、よく引用される、Linuxの最初のリリース後に起きたトーバルズ−タネンバウムの「フレーム・ウォー」による。ノンポータブルでモノリシックなカーネル設計と彼が選択したことを弁護するプロセスで、トーバルズが言うに、彼は新しい386PCをもっと学ぶ方法としてLinuxに取り組み始めたのだ、と。「GNUがその前の春にできれいれば、ぼくは自分のプロジェクトなんて始めなかったのに。」Chris DiBona et al., Open Sources (O'Reilly & Associates, Inc., 1999): 224 参照のこと。